新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

47〜49 子供らしいことは果たして悪いことなのだろうか

子供らしいことは果たして悪いことなのだろうか
 
 
日本人はこの点について、
西洋人に劣っていると思う。
 
西洋人は、大まかに言って、
やっていることと 言っていることが
いかにも のびのびして、無邪気だ。
ひねこびたところが 少ない
 
遊ぶときについてみても、
西洋人は、白髪の老人が 少年と一緒になって
愉快そうに ベースボールをやる。
 
日本の老人は、
待合室で お気に入りの芸妓を抱いて、
酒でも飲んで ほどよく詩歌でも 口ずさむか
そうでもなければ、静かに隠居して
世間から 離れているに過ぎない。
 
西洋人のような活気は少しもない。
 
書物を読んでも、人と交流しても、
同じだ。
 
議論に活気がなく、それまでの習慣に
少しでも反したことがあれば 全部、
「現実ばなれした理想論だ」とか言って排斥され
新規な説でも述べると、
なかなか聞き入れられない。
 
「大人(たいじん)は
その赤子(せきし)の心を 失わざる者なり。」
と言っている。
 
いわゆる 赤子の心とは、
純粋で偽りのない、子供らしさだ。
 
昔から偉人とか英雄とかと言われる人は
常に この単純な、子供のような心があって、
それが いろいろの働きの 基(もと)と
なっていたようだ。
 
ワーズマースの『霊魂の不滅の賦』という詩にも、
人が成長するにつれて
鏡のように 心を曇らせてしまうことを 残念に思い、
幼児の心を褒めたたえて 預言者として、
真の祝福ある者だと言っている。
 
子供らしいことは、尊ぶべきことで、
そして、長く保ちたいことです。
 
英語でも、「子供らしい」というのに、
2種類の言葉がある。
 
Childish   ( チャイルディッシュ ) 
Child-like   ( チャイルドライク ) とがそれで、
ドイツ語も、
Kindish   ( キンデッシュ 
Kindlich   ( キンドリッヒ ) 
2つの言葉がある。
 
ともに「子供らしい」という意味だが、
最初のやつは バカバカしくて
知識の足りないことを示し
もう1つの方は、
無邪気で可愛らしいということだ。
 
両方とも 知識が足りないのは同じだが、
 
後の方は 悪知識が足りていないので、
無邪気なことを 意味している。
この意味でいうところの子供らしさは
青年の特徴だ。
悪賢いところがない。
 
だから、青年というのは
無邪気で世間の悪いことを知らないという意味だ。
 
 
参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)
 

 

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)

 

 

46 日本の若者は、ずいぶんと年寄りぶる

2.青年の第二の特性


日本の若者は、ずいぶんと年寄りぶる

東洋の習慣では 全般的に、
昔やった仕事を数えて、それが多いのを
喜ぶ傾向がある。

過去とはいえ
その人がやった仕事が多いのは、
もちろん喜んでいい。

また、これと同時に 年長者を
尊敬するふうもある。

「翁(おう)」という字を 使いたがり、
近頃は 若翁(じゃくおう)だなんていう人さえ
いる。

老人は多くの実体験を積んでいる。

老人を尊敬するのも この点に注目したからだが、
後には この尊敬すべき理由を忘れて
老人でありさえすれば
必ず全ての人を尊敬しようとして、
老人の方もまた
理由なく他の人から尊敬されようとする。

そんなわけで 若い人もこぞって老人ぶる。
若者が老人ぶるのは
東洋諸国全般に共通してみられる弊害だ。

中国と朝鮮半島はとてもその傾向がある。
日本はそれに比べると
ややその傾向は少ないけれども、
それでもまだまだ老人ぶっている。

のびのびとすべき子供らまで 爺々くさい。
大人びなければ世間の尊敬が
受けられないと思って、
全体の態度が老人ぶっている。

単に態度だけではない。
その思想までもが、少年でありながら
老人らしくなる。
その人自身が好んでそうしたがるし、
世間まで これが良いことのように思っている。
よほど注意しないと、すぐに若老人になって、
若いのに使えない人になってしまうように、
社会の空気が出来上がっている。
だから せっかく伸びる素質のある青年も、
途中で悪固まりに固まって、
盆栽の松みたいになっているところを
よく見る。

だいたい、人の体力などでも
若くて筋肉に弾力があるときは
修練しだいで いくらでも発達させられるけれど
年をとって筋肉が硬くなれば、
なかなか難しくなるのと同じで、
若くて弾力ある心でこそ、
初めて心も発達できるものだ。

ところが筋肉の弾力は
年にしたがって不可抗的に減っていくが、
心の弾力の方は、
心がけしだいで墓に入る日まで保つことができる。

一斎さんの言葉を借りる。
「身に老少あり、しかして心に老少なし、
 気に老少あり、しかして理に老少なし、
 すべからく よく老少なきの心をとり、
もって 老少なきの理を 体(たい)すべし」

 

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

45 年をとっているか若いかは、今後やるべき事の多い少ないで決まる

年をとっているか若いかは、今後やるべき事の多い少ないで決まる


ユウェナーリスという文学者が、
昔のローマ帝国の全盛時代について
書いたことがある。
世間の好みが派手好きになり、
人の心が乱れて
女性の道徳が墜落したことを述べ、
女性の年齢を数えるのに
公認の暦で数えないで、
離婚するために結婚した男と
結婚するために離婚した男の数で
計算するようになった
と悲しんだ。
(Women counted the number of their years not by consular fasti but by the number of husbands they married in order to divorce and divorced in order to marry.)

本当に
そんなことがあったのかどうか
分からないけど、
人が若いか年寄りかを決めるのに
年齢以外にも標準があることを
示した言葉だ。

上の例は
僕が言いたいことの
極端な乱用だけれども、
僕が言いたいことの
良い方の意味も
ここから分かってもらえると思う。

つまり、年老いているのか若者なのかは、
これからなすべき事業が
有るか無いかと
それが多いか少ないかによって
定めるべきだ、と。

昔やった仕事を数えれば数えるほど、
年寄りになるのだ。

青年はこれからする理想に
富んでいる人でなければならない。

将来に多くの理想を抱いていることは、
青年の特徴だ。

例えば
100里の道を行く者が
60里、70里のところまで到達して
「僕はここまで成功できた」
なんて思うのは、
そろそろ年寄りになる兆候だ。

百里に行く者は九十里に半(なか)ばす」
というが
その90里に到達すれば
目の前に横たわる道が
さらに増えて
180里にもなる。
つまり、希望と理想が増えてくる。

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

43〜44 希望抱負に富む者こそ青年

希望抱負に富む者こそ青年

 

 これに対して青年とは、

過去にした仕事よりも、

将来にすべき仕事の数が多い、

つまり希望と抱負がたくさんある人を言う。

 

 人間がこの世に生まれてくれば、

するべきことはたくさんある。

 

近頃の言葉で言えば、

人間がこの世に帯びてきた使命はたくさんある。

 

例えば100の使命を帯びてきたと仮定し、

そのうち10だけやったとする。

すると、その人を測定するのは、

やり終わった10だけでなく、

残りの90だと思う。

 

しかし!

最初に帯びてきた使命のうち、10やって、

残りが90になったにしても、

すでに10のことをやった後は

その人の使命はさらに多くなる。

 

1の使命を果たすと、

果たすにしたがって なすべきことが

限りなく現れてくる。

いわゆる人間の理想というものは限りなく、

それが満足に達してしまうという限度はないのだ。

 

丁度、ナポレオンが

イタリア征伐(ブログ主:原文まま)のために

アルプス山脈を超えたのと同じようなもので

全軍の将軍も兵士も、

「この険しい山を越えさえすれば、

すぐにイタリアの広野で動き回れるぞ」

と思って、気分を盛り上げて進む。

だが、ひと山越えると

さらに険しいひと山が現れる。

それも越えればまた現れる…

というふうで、

いわゆる

Alps upon Alps 

という名言が初めて使われた。

 

これと同じく、

理想を達すると

また後から続々と理想が現れてきて、

到底全部は達成できない。

最初には少なかったものが、

1つずつやっていく間に、

さらに新しいものが出てきて

僕たちの活動を限りなく促す。

 

僕たちが、

やるべき仕事を標準にすれば、

年齢が上がって老いても、

年はとらない。

 

佐藤一斎(いっさい)が言っている。

「この学は吾人一生の負担、

   まさに倒れて、しかして後やむべし。

   道もとより窮(きわ)まりなし、

   堯舜(ぎょうしゅん)の上、善は尽くるなし、

   孔子学に志してより七十に至り、

   十年ごとに自らその進む所あるを覚(さと)り、                    

   孜孜(しし)自らつとめて、

   老いのまさに至らんとするを知らず、

   よしそれをして耄(もう)をこえ期に至らしめば、

   すなわちその神明不測(しんめいふそく)、

   想うまさにいかなるべきや、

   およそ孔子を学ぶ者、

   宜しく孔子の志をもって志となすべし」

 

孔子は理想に達するまでの階段によって

自分の年齢を計ったから、

 

50歳のときに

「まだ耳順に達するまでに10年もある」

 

60歳のときに

「まだ規(のり)を越えない年までに10年もある」

 

と、先を見越していらっしゃったから

青年に劣らず

自分で気をつけて頑張る元気をもっていた。

 

ムダに過去を振り返って

自分のやった仕事を計算するのは

すでに衰えてきた兆候だ。

そんな人は年が若くても

青年とは呼ぶことができない。

 

将来やるべき希望と抱負に富んでいて、

かつ  それをやり遂げる   志望と元気。

これがある人が青年で、

春秋(しゅんじゅう)に富む

という言葉も、そういう意味だ。

 

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

 

 

 

 

 

     

42 その人の価値を決める基準

その人の価値を決める基準

 昔の詩人も、人物の価値を定めるには、その人のやった事業で数えるべきだと言う者がいる。
 たしかに事業を見れば、その人を測定する標準になる。
 けれど、これは他人が観察することで、その人が自分で決めることができない。

 4、5年前に、僕は大磯で伊藤博文公爵にお目にかかったことがある。それまで田舎ばかりにいて、名高い人に会ったことがなかった。
(もっとも、その後もあまり偉い人にお目にかかる機会はないが。)

 ちょうど少し時間がおありらしかったので、僕はこういう人にあったチャンスを利用しない手はないと考えた。
 伊藤博文公爵に、
「今までにあった人々の中で、誰が一番偉いと感じましたか。」
ということと、
「人が偉いというのは、本来何を基準として測るんですか。」ということを尋ねた。

 公爵は少し頭を傾けておられたが、「まあ、なした仕事だろうな。」と言われた。

 伊藤公爵がこういうふうに答えられたのは当然だろう。詩人もすでに同じことを言っている。

 しかしこれは世間が標準とすることであって、自分から定めるべきことではないだろう。そして、これは過去の歴史に富んでいて、未来の希望が減ってしまった者にあてはまる標準だ。

 

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

41 「歳をとる」とはどういうことか

歳をとるとはどういうことか

    大体、人が歳をとるというのは何を基準にして決めるものだろうか。
 暦にも太陽暦とか、太陰暦とかいろいろあって、年にも長いのと短いのがある。

 こんなもので人が若いか老いているかを決めるのは、単に人を肉体とみなしてのことだ。中には酉年生まれとか巳の年生まれとか何とか言って騒いでいる人達もいる。
 
 もちろん人が集まって社会をなしている以上は、都合のために何か共通の基準を決めておくのも便利だろう。しかし人の老若を決めるのに必ずしも太陽の回転だけで数えなくてもいいだろう。

「春至り、時和(やわ)らげば、花なお一段の好色を鋪き(しき)、鳥すら幾句の好音(こういん)をてんず。
士君子(しくんし)幸いに頭角をつらね、また温飽(おんほう)に遇うも、好言(こうげん)を立て好事(こうじ)を行うを思わざれば、これ世にある百年といえども、あたかもいまだ一日を生きざるに似たり」
と、昔の人も教えてくれている。

 そこで年をとるというのは、一体どんなことを意味するか。

 去年はああいうことがあったけど、今年はそれがなくなった。
 
 去年はお酒で失敗したけど、今年はそれがなくなった。

 去年は人の悪口を言ったけど、今年はそれがなくなった。

 去年は人をうらやましがるくせがあったが、今年はそれがやんだ。

…というように、自分の決心と実行とが両方ともなって、より高い向上発展が実現されたなら、真(まこと)の歳をとったのだ。暦を繰り返したからといって、必ずしも老年というのではない。
 そして、この意味で歳をとるのはただ単に馬齢を加えるのと違って、星霜(せいそう)を経(ふ)れば経るほど精神が若返り、それこそ老いてますます盛んになり、衰えることはなく、成熟する。

 

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

39〜40 第1章 青年の特性 「青年」の意義

第1章 青年の特性
1.青年の第一の特性

青年の意義

 青年!
 青年という言葉は、よく人が使う言葉であり、また何とか青年会というものも各地に盛んに組織されているが、青年とか青年会とかいうのは一体どういうものなんだろう。青い年と言うからには、老人を白い年、赤ん坊を赤い年ということもありそうだが…。この青年という言葉の起こりは、そう古くないと聞いている。熱心な人々という点から見たら或いは赤年、潔白なる人々という点から見たなら白年と言い、それでその集会を赤年会とか白年会とか名付けそうなものなのに、普通にみんな青年とか青年会とか言っているのが面白い。

詩経(しきょう)』に「青々子衿(せいせいしきん)」という句があるそうだ。若い学生は青の衿の服を着ていたから、学生を青衿子と呼ぶのだそうだが、漢書では青雲の士とか青雲の交わりとか、または青眼とかいうように、青は良い意味に使っている。青年ということは、まだ先の分からない、広い、青々と芽吹いた草葉の意味から生まれた言葉だと思う。青は春の色で、中国の古い本でも、春を青帝(せいてい)と言っている。

 緑なるひとつ草とぞ春は見し
  秋はいろいろの花にぞありける

    この歌のとおり、青年というのは、ちょうど春の野原のように青々として、それがどんな種類の花を開くか、どんな性質の実を結ぶか、つまりいかなる向上発達を遂げるか分からないという、将来に大きな望みのあるところが青年の青年たるゆえんである。

    言い換えれば、青年は大きな希望抱負をもっている人を言うので、年齢の多い少ないは関係ない。だから希望のない人はいかに若年であっても、片足を棺桶に踏み込んでいるのと同じようなものだし、希望さえあれば30歳になっても60歳になっても、青年というべきだ。

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)