36〜38 修養説の将来
修養説の将来
近頃は、「修養。修養」と言う声がだいぶ世間に響き渡り、一つの流行語のようになった。それについて僕の心配することは、今後の成り行きだ。
そもそも日本の思想界は大概10年ごとに一変するようだから、今世間で言われている修養説も10年後にはどんなふうに受け取られるか。おおいに考えるべき問題だ。そこで僕は今後3つの傾向が表れるだろうと考えている。
①反動
②知行(ちぎょう)の分離
③宗教心の発揮。
①反動、とは、僕のことでもないが、とにかく修養のわずかな欠点というのは、豪傑肌の人には簡単に耐えられないところだから、機会さえあれば修養なんてものに反抗したがるのも当然だ。修養論が盛り上がっている間は多少反対されても効き目はないからいいが、ブームが去ったらどうか。流行が下火に傾きかければ、かつて修養論を唱えた人で、たまたまつまずいた人でもいたらどうか。
それ見たことかとその人を責める方法として、その人の言っていた主張を攻撃するだろう。そして、「修養なんか窮屈で『切るがごとく、瑳く(みがく)がごとく、うつがごとく、磨くがごとし』と言うように、とても人為的な小刀細工で不自然だ」と。「修養は人を縮めるだけだ」と。必ずそんな声が出てきて、相当優勢になるだろうと思う。
果たしてそれでそのような議論の結果が伸び伸びとした大人物を作れるものなら良いが、僕はむしろ、いわゆる自然主義的人物を出すことになるんじゃないかと恐れる。
第二の傾向は、知行(ちぎょう:知識と行為)の分離と言ったが、これだけでは僕の言いたいことが伝わらない。少し説明する必要がある。修養とは個人の人格の向上が一番大切だし、つまり孟子のいわゆる心の大を養うことが第一の目的だということがまず言える。だが一方で、養われた精神が実行に現れ、そして身を修めることにも重きを置くから、修養の方法は実際的で具体的だ。
ところが実際的で具体的なものは、学術や思想の立場から見ると根本的ではないと扱われるから、何となく浅はかで薄っぺらいかのような感じを受ける。そこでいわゆる思想家は、修身と養神(ようしん:精神を養うこと)を分けてしまって、養神を選んで修養を捨てることで、かえってハイレベルだと信じるようになるだろう。
なお、こういう説も表れるだろう。それは、修身とは主として他人、社会に対しての日々の行いのことだが、養神は天上天下唯我独尊なる個人を無理なく育てることだから、養神を努める以上は修身はそんなに努める必要はない、という説。短く言うと、品行とか義理とか、外に現れる相対的なことはどうでも良い。都合によっては世を去って隠遁するに越したことはないという傾向も必ず起こると思う。
第三の傾向は、第二に述べた傾向がもっと積極的に進んだものだ。良い修養法の根底を知ろうと努力した末に、そもそも我々がこの世にいるため、人と人との間に行われる心の作用、前世、死後の存在、道徳の根本等を考え始めると、勢い宗教によらなくては解決できない問題に直面する。だから今でも、すでに修養を深く志す人は宗教家に多く、また宗教家はよく修養に力を注ぐことがある。
修養説の今後の傾向(発展?)はあらゆる方面に及ぶだろうが、いろいろある中でも特に主なものはこの三つだろう。読者の皆さんは、修養説の今後の傾向がいかなる方面に進んだとしても、願わくば常識的判断で、無駄に空理空論に走らず、世間とともにうつり変わり、そして世間ともに、自然にうつり変わってしまうように心がけてもらいたい。
参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)
33〜35 非凡なことは、平凡なことの修養によってできるようになる
非凡なことは、平凡なことの修養によってできるようになる
非常事態のときの立ちまわりは、前にも言ったように、なんといっても日々の平凡な心がけによる。春風に誘われて3日間見ない間に開く桜は、風に吹かれて慌てふためいて開くのではない。前年の冬から厳しい寒さをしのいで、つぼみを養ったからだ。昔の武士が戦場に行って命がけの勝負をしたのは、日頃から木刀を持って木の的を相手に打ち込みをしていた結果だ。平素の修養があればこそ、非常事態のときの覚悟が定まる。
かかる時さこそ命の惜しからめ
かねてなき身と思ひ捨てずば
「かねて」とはつまり、日頃からという意味。日頃から自分の体を捨てる覚悟があればこそ、いよいよというときに、心が迷わない。世間の人は、何か目立ったことや非凡なこと、人を驚かせるようなドラマチックなことを喜ぶから、平凡な日々の修養を軽視するようだ。しかし、これはむしろ子供っぽい考えだと思う。例えるなら、普通の本がようやく分かるかどうかという少年時代に、賢そうな哲学書をひもときたがるようなものだ。どんなに説明を聞いたって半分も分かっていない。辞書を引いても、やっぱりだいたい半分分かったくらいなのに、ただ頭の良さそうな本を見さえすれば、頭がいい人らしく見えるのを楽しむ。それと同じく、修養のない人は、力の及ばない議論を言って、知識の足らない考えを言って、少しの間気分が良くなるというふうだ。しかし修養ある人はそういうものではないと思う。生まれた子供はおっぱいで育てるが、その後だんだん日を重ねるに従って硬い食べ物も消化することができるようになるのと同じで、義務を果たすのにもまた、その地位にいるからこそ、その地位に相当するだけの義務をよく果たした後で、初めてそれ以上の義務を果たすために充分な力を養うことができるものである。
僕がここで修養の方法を伝えるにあたっても、我々が平凡な日々の務めを果たすのに必要な心がけを述べるのが目的だ。だから一躍して英雄豪傑の振る舞いをして、難しいこと、世間からの喝采を受けることを目的とはしない。巧名富貴(こうみょうふうき)は修養の目的にするべきではない。自分から反省して潔くし、どんなに貧乏でも心は満足し、どんなに悪口を言われても自分自身は楽しみ、どんなに逆境に陥っても、その中に幸福を感じ、感謝の気持ちをもって世を渡ろうとする。それが、僕がここで説明しようと思っている修養法の目的だ。
佐藤一齋さんの言葉で、「およそ活物(かつぶつ)は養わざれば死す、心はすなわち我にあるの一大活物なり。もっとももって養わざるべからず。これを養うはいかん。理義(りぎ)のほか別法(べつほう)なきのみ」とある。身体を養うための食べ物が毎日3食必要なように、道理と正義の心のための栄養も絶え間なく必要だということは、少しなりともこういうことの経験がある人ならばよく分かっていることだ。日々刻々の修養は、実行している最中は大したこととは思えないけれど、これがだんだん積り積ると立派な人物を築き上げる。始めは苦しみながら修養していたとしても、慣れてくると修養が身の肉となり骨となり、凡人とは違う人となる。嫌々坐禅をしている間は、まだ完成されていない上人だが、それをやり遂げじっくり完成した上人は、実に見上げたものである。
せぬ時の坐禅(ざぜん)を人のしるならば
なにか仏の道へだつらん
参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)
32〜33 日露戦争で倒れた2人の男
日露戦争で倒れた2人の男
30〜31 修養のある人とない人との違い
27〜29 実践道徳に必要なのは、日頃からの行い
実践道徳に必要なのは、日頃からの行い
26 修養についての誤解
修養についての誤解
23〜25 全体について 修養とは何を意味するか
全体について
修養とは何を意味するか