新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

43〜44 希望抱負に富む者こそ青年

希望抱負に富む者こそ青年

 

 これに対して青年とは、

過去にした仕事よりも、

将来にすべき仕事の数が多い、

つまり希望と抱負がたくさんある人を言う。

 

 人間がこの世に生まれてくれば、

するべきことはたくさんある。

 

近頃の言葉で言えば、

人間がこの世に帯びてきた使命はたくさんある。

 

例えば100の使命を帯びてきたと仮定し、

そのうち10だけやったとする。

すると、その人を測定するのは、

やり終わった10だけでなく、

残りの90だと思う。

 

しかし!

最初に帯びてきた使命のうち、10やって、

残りが90になったにしても、

すでに10のことをやった後は

その人の使命はさらに多くなる。

 

1の使命を果たすと、

果たすにしたがって なすべきことが

限りなく現れてくる。

いわゆる人間の理想というものは限りなく、

それが満足に達してしまうという限度はないのだ。

 

丁度、ナポレオンが

イタリア征伐(ブログ主:原文まま)のために

アルプス山脈を超えたのと同じようなもので

全軍の将軍も兵士も、

「この険しい山を越えさえすれば、

すぐにイタリアの広野で動き回れるぞ」

と思って、気分を盛り上げて進む。

だが、ひと山越えると

さらに険しいひと山が現れる。

それも越えればまた現れる…

というふうで、

いわゆる

Alps upon Alps 

という名言が初めて使われた。

 

これと同じく、

理想を達すると

また後から続々と理想が現れてきて、

到底全部は達成できない。

最初には少なかったものが、

1つずつやっていく間に、

さらに新しいものが出てきて

僕たちの活動を限りなく促す。

 

僕たちが、

やるべき仕事を標準にすれば、

年齢が上がって老いても、

年はとらない。

 

佐藤一斎(いっさい)が言っている。

「この学は吾人一生の負担、

   まさに倒れて、しかして後やむべし。

   道もとより窮(きわ)まりなし、

   堯舜(ぎょうしゅん)の上、善は尽くるなし、

   孔子学に志してより七十に至り、

   十年ごとに自らその進む所あるを覚(さと)り、                    

   孜孜(しし)自らつとめて、

   老いのまさに至らんとするを知らず、

   よしそれをして耄(もう)をこえ期に至らしめば、

   すなわちその神明不測(しんめいふそく)、

   想うまさにいかなるべきや、

   およそ孔子を学ぶ者、

   宜しく孔子の志をもって志となすべし」

 

孔子は理想に達するまでの階段によって

自分の年齢を計ったから、

 

50歳のときに

「まだ耳順に達するまでに10年もある」

 

60歳のときに

「まだ規(のり)を越えない年までに10年もある」

 

と、先を見越していらっしゃったから

青年に劣らず

自分で気をつけて頑張る元気をもっていた。

 

ムダに過去を振り返って

自分のやった仕事を計算するのは

すでに衰えてきた兆候だ。

そんな人は年が若くても

青年とは呼ぶことができない。

 

将来やるべき希望と抱負に富んでいて、

かつ  それをやり遂げる   志望と元気。

これがある人が青年で、

春秋(しゅんじゅう)に富む

という言葉も、そういう意味だ。

 

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)