新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

32〜33 日露戦争で倒れた2人の男

日露戦争で倒れた2人の男

 
 日露戦争に身を挺して特別任務にあたり、
ついにハルピンの露と消えた、
横川省三と沖禎介の2人の男は、
随分と修養のあった人たちだ。
 
沖さんは豪傑風で、態度は堂々としていた。
 
横川さんは、いよいよ死ぬというときに
非常に静かで、まるで死を恐れるかのようだった。
 
僕は2人の態度を見て、2人とも尊敬するけれど、
特に横川さんの修養の深さ、
志の高さには一層の敬意を表する。
 
2人が死の前に立ったとき、
沖さんはそれ以上に望みはなく、
死ぬことは、沖さんにとって最後であった。
死について望みはなく、
また恐れることも何もない、
いわば消極的態度だ。
大胆ではあるが、消極的な大胆。
 
これに対して横川さんは、
死んだ後にもまだ自分の仕事は
続くと思っていたようだ。
死は、ただその仕事の入り口でしかない。
その後には偉大なる空間があって、
自分はそこに入って、そこで偉大な使命を
行うと思っていたのだ。
果たして自分がその任務に耐えられるであろうかと疑ったようだ。
 
横川さんが死ぬ時に躊躇し、
死を恐れるように見えたのは、
死を恐れたのではなく、
その任務の重大さを感じて
感慨深くなったからであったらしい。
 
話題が思わず横道に逸れたが、
修養のあるかないかは、
必ずその言動にあらわれる。
普段に修養の心がけをしないで生活する人は、
大胆であっても
いわゆる盲人蛇に恐れぬ大胆である。
素人には豪傑そうに面白そうに見えるが、
その人物は何となく空っぽなところがある。
人間そのものが充実していない。
よく太った大柄の兵士のように見えるが、
いわば水膨れで、肉付きが悪い。
たたくと大きい音がする。
 
修養ある人は地味で目立たないかもしれないが、
自らをよく反省し、
修養のない人では到底遠く及ばない、
安心させるところがある。
 
参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)