新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

49〜50 青年は不必要な知識を貪るな

青年は不必要な知識を貪るな


「青年は
何もかも知らなければならない。
知識を得るためには
世間の悪を知ることもある。
世間を知るためには、
少しぐらいの悪を知るのもやむを得ない」

などと教えたがる者がいる。

しかし僕は、そんなこと信じない!

世間の悪いところを知るなんて、
決して真の知識を得る道ではない。

哲学者に聞くと、知識にも
品格とステータスがあるのだそうだ。

仏教には
未那識(まなしき)と
阿頼耶識(あらやしき)というのがある。
両方とも知識という意味だ。

阿頼耶識(あらやしき)は
蔵識(ぞうしき)とか種子識(しゅししき)とも
呼ぶ。

阿頼耶識(あらやしき)のほうが、
未那識(まなしき)よりも品位が高く、
力のあるものなのだ。

同じ知識といっても、このような階級の違いがある。
知識を得る方法によっても品位は変わる。

いくら、
青年は知識を吸収しなければならないと言っても
悪い知識は取っ払うのが妥当なのだ。
子供らしくて悪知恵がないからといって
青年として少しも差し支えることはない。

人情を知るならば、高尚な人情。
世間の事情を見るならば、
健全な事情を知るのがよい。

悪知恵まで受け付けるのは
かえって青年がその資格を失うきっかけだ。
すでに年寄りに進む近道だ。

ゲーテの『ファウスト』でも、
無用の知識のことを
「人は知らなくとも善いことを知り、
知らねばならぬものをかえって知らぬ」
と言ってある。

このように、僕たちは
不必要な知識にうんざりしているものなのだ。

そんなことも考えずに
無用、いや、むしろ有害な知識を振り回し、
見なくてもよい 縁の下を覗いて

「うわぁ、あすこにクモの巣が引っかかっている。
こっちには犬のフンがある」
とかなんとか言って、
すごいだろう、社会通だろうなどと
得意になっているくらいなら、
いっそ知らぬが仏だ。

青年は誰がなんと言おうと
有害なことを知る必要はない。


参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)