新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

33〜35 非凡なことは、平凡なことの修養によってできるようになる

非凡なことは、平凡なことの修養によってできるようになる

非常事態のときの立ちまわりは、前にも言ったように、なんといっても日々の平凡な心がけによる。春風に誘われて3日間見ない間に開く桜は、風に吹かれて慌てふためいて開くのではない。前年の冬から厳しい寒さをしのいで、つぼみを養ったからだ。昔の武士が戦場に行って命がけの勝負をしたのは、日頃から木刀を持って木の的を相手に打ち込みをしていた結果だ。平素の修養があればこそ、非常事態のときの覚悟が定まる。

かかる時さこそ命の惜しからめ
かねてなき身と思ひ捨てずば

「かねて」とはつまり、日頃からという意味。日頃から自分の体を捨てる覚悟があればこそ、いよいよというときに、心が迷わない。世間の人は、何か目立ったことや非凡なこと、人を驚かせるようなドラマチックなことを喜ぶから、平凡な日々の修養を軽視するようだ。しかし、これはむしろ子供っぽい考えだと思う。例えるなら、普通の本がようやく分かるかどうかという少年時代に、賢そうな哲学書をひもときたがるようなものだ。どんなに説明を聞いたって半分も分かっていない。辞書を引いても、やっぱりだいたい半分分かったくらいなのに、ただ頭の良さそうな本を見さえすれば、頭がいい人らしく見えるのを楽しむ。それと同じく、修養のない人は、力の及ばない議論を言って、知識の足らない考えを言って、少しの間気分が良くなるというふうだ。しかし修養ある人はそういうものではないと思う。生まれた子供はおっぱいで育てるが、その後だんだん日を重ねるに従って硬い食べ物も消化することができるようになるのと同じで、義務を果たすのにもまた、その地位にいるからこそ、その地位に相当するだけの義務をよく果たした後で、初めてそれ以上の義務を果たすために充分な力を養うことができるものである。
僕がここで修養の方法を伝えるにあたっても、我々が平凡な日々の務めを果たすのに必要な心がけを述べるのが目的だ。だから一躍して英雄豪傑の振る舞いをして、難しいこと、世間からの喝采を受けることを目的とはしない。巧名富貴(こうみょうふうき)は修養の目的にするべきではない。自分から反省して潔くし、どんなに貧乏でも心は満足し、どんなに悪口を言われても自分自身は楽しみ、どんなに逆境に陥っても、その中に幸福を感じ、感謝の気持ちをもって世を渡ろうとする。それが、僕がここで説明しようと思っている修養法の目的だ。
佐藤一齋さんの言葉で、「およそ活物(かつぶつ)は養わざれば死す、心はすなわち我にあるの一大活物なり。もっとももって養わざるべからず。これを養うはいかん。理義(りぎ)のほか別法(べつほう)なきのみ」とある。身体を養うための食べ物が毎日3食必要なように、道理と正義の心のための栄養も絶え間なく必要だということは、少しなりともこういうことの経験がある人ならばよく分かっていることだ。日々刻々の修養は、実行している最中は大したこととは思えないけれど、これがだんだん積り積ると立派な人物を築き上げる。始めは苦しみながら修養していたとしても、慣れてくると修養が身の肉となり骨となり、凡人とは違う人となる。嫌々坐禅をしている間は、まだ完成されていない上人だが、それをやり遂げじっくり完成した上人は、実に見上げたものである。

せぬ時の坐禅(ざぜん)を人のしるならば
なにか仏の道へだつらん

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)