新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

30〜31 修養のある人とない人との違い

修養のある人とない人との違い
 
 他の人や僕が「平凡」という言葉を使ったので変に思う人もいるかもしれない。しかし僕が言っている平凡の務めというのは、そのことそのものは平凡であっても、これを実行する人は、決して平凡ではない。
僕の家の前を毎朝同じ時間に「納豆、納豆」と売って通る納豆屋がある。僕はこの納豆屋を非凡な大物だとは言わない。またその職業も平凡だ。売るということも平凡で、おかしいところはない。しかし彼女が毎朝時間をずらさないで、値段も崩さないで、品物を吟味して、お客さんに親切丁寧にし、売上げで病気の夫を看護し、背中に負う子供を養うという心がけがあれば、彼女は非凡な者じゃないだろうか。
 人はつい、職業や言語を見て、非凡と平凡とを区別する。実際は普段の心がけと品性を基準にするのが良いだろう。同じ平凡であっても、品の悪い平凡もあれば、とても品の高い平凡もある。例えば武蔵野は平らで広々とした平野だけど、北に進んで碓氷峠を越えると、軽井沢の平野はまた平らで広々とした天地を現す。同じ平凡だけど、その高さにはおよそ900メートルの差がある。平凡もまた同じく、高いところにある平凡と低いところにある平凡があると思う。
 禅学を修めた人で言えば、中途半端に座禅をした人は自分ばっかりが偉くなって人を見下す感じがする。
 しかし、自分だけが偉がっても、もういっそう進んでいわゆる高僧智識になると、言っていることも実に平凡。行いもまた普通の人と違わない。そのように言語動作は普通の人と違いはないが、しかしよくこの人を見ると、声の音調が違う。目の艶が違う。歩くにも、足の踏み方が違う。お茶を汲んでもその手つきが違う。一見平凡としか思えなくても、その平凡には大いに高低の差がある。ここがすなわち修養のある人と修養のない人との差だ。
 修養のある人の言うことや、やることは一見すると平凡で、普通の人と全然違わないようだけど、実は何事においても、どこかについても、大きく違うところがある。
 適当な餌で育った子羊も、ある程度までは育つ。かえって、おいしい餌で特殊な栄養を摂っている羊よりも、伸びのいいこともあるかもしれない。しかし、いよいよ毛を切る時には、毛の品質が大きく違う。肉にして食べたときは、肉の味わいが違う。僕はこれと同じ状態を、青年によく見ることがある。例えば、 A 君と B 君2人の青年がいて、 A君は何の修養もなく、いわゆる本能を発揮し傍若無人な振る舞いをすれば、「あいつは面白い。」とか「変わったやつだ。」とか「豪傑肌だ。」とか言って褒められて、 B君が日夜細心、自分から努力して修養すると、人からは「坊主のなりそこないだ。」とか「小さなことにこだわっていて大物にならないだろう。」とか言われる。
   しかしある朝、事件が起きると、2人の態度は一転し、修養のあるなしは、最も鮮やかに現れてくる。

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)