新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

27〜29 実践道徳に必要なのは、日頃からの行い

実践道徳に必要なのは、日頃からの行い

 
僕には
こういう学問上の根本思想に立ち入る力はないし、
少し立ち入れたとしても、
そういうのはわざと避けようと思う。
避けたからといって実践上、差し支えないと思う。
僕が思うに、
道徳的、倫理的思想は、純粋な理論では
説明しきれない。
ドイツのカントは
世界で並ぶ者のない哲学者だと言われていて、
宇宙にある全ての現象は、
ことごとく理屈で説明してみせようとした。
だが、宗教と道徳のことについては
到底純粋な理論では説明できませんと言って、
実践の道理を設けて説明しようとした。
実際の生活場面で
善悪とか正しい正しくないとかの
区別をつける力は、
理研究に用いる真偽を計る力とは違うと思う。
だからいかに頭脳明晰で
いかに学問に通じた人でも、
いくらか道徳観念に欠けている人がいる。
 
僕は以前アメリカを旅行したとき、
有名な施設を訪ねたことがある。
1000人近くの人が生活している中に、
10人ばかりすこぶる頭の良い少年がいた。
彼らは文学の話をすれば
普通の人が遠く及ばない感想をもっていた。
学術のことを語って返事をすると、
専門家でさえも舌を巻くくらいだった。
中でも一番驚いたのは、
計算がすごい人がいたことだった。
どんな大きな数にでも
足し算、引き算、掛け算、割り算を頼めば、
一丁のソロバンも持たずに、
一本のペンも使わないで
即座に正確な数字を答えた。
例えば79万3625という数に
9万9673をかけ算するように頼むと、
直ちに791億16984625と数を答える。
僕らが3、4分もかかって計算すると、
果たしてそれが少しも間違っていない。
割り算もそんな感じだ。
その数学的才能は、実に僕らを驚かせた。
 
ところが彼らの道徳的観念は全く無しだ。
人の物を盗むのを悪いこととも思わず、
嘘をつくのが当然と思っていて、
施設院長は20年余り彼らに接し、
かついろいろ調べた結果、
道徳観念は知能と一種異なった点があると言った。
もし知能を標準にすれば秀才と呼ぶべき人も、
道徳上見て賢くない人がいると言った。
 
これはただ道徳と知能の間隔が大きい、
極端な例をあげたのだけれど、
これほど極端でない実例は
お互いの日々の実体験にたくさんあるでしょう。
よって、
毎日私たちのやるべきことを
学問上の理論で研究すれば、
知能の作用で面白い理論も言えるし、
またそれに対する反対意見にも
同じく面白い理論が用いられる。
しかしこれは理論的、研究的な場合だ。
実際に世を渡るときに、
知恵を尽くさなければ善悪の判断ができないような
大難題はほとんどない。
一生に一度あるかないかだ。
僕たちが普段やらなくてはならない仕事は
平凡な問題で、
知恵を絞らなくとも
常識で善悪を判断できるものだ。
そしてまた、これが一番難しいところだ。
いや、判断のみでない。
判断したことの実行こそ、実に難しいことだ。
この日々の平凡な務めをよく行い続ければ、
一生に一度あるかないかの大難題が起きても、
簡単に解決できる。
ただし、日々の平凡な務めをサボる人は、
このような大難題に出合うと、
パニックになり、解決策が出てこない。
要するに難題の解決も、
日々の平凡の務めを成し遂げることによって、
初めてできることだと思う。
 
参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)