新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

26 修養についての誤解

修養についての誤解

 
短い言い方をすれば、
修養とは身を修めて心を養うということだろう。
身と心の健全な発達を目指すのが、目的だ。
近頃は修養という言葉が広く使われている。
でも、修養する目的物の内容については、
僕のいうところと全く違った考えを
唱える人がいる。
この人たちも、
修養が「心を養う」という点では同じ考えだが、
心というものの解釈が、大きく違う。
つまりこの人達の説によれば、
 
「人の心はもともと動物のような性質を
もっているものだ。
だから心を養うといえば、
いわゆる自然主義者がいっているように
心が欲するままに任せて、
心を動物的にさせるのが、修養の目的ではないか。自分たちの実体験から、
人はとにかく悪いことを好んで親しみやすく、
善いことを嫌って遠ざけやすい。
このことから見ても、
欲望を満たして好きなことを楽しむのが、
もともとの性質に従って心を養うということだし、人の心の自然な傾向なのだ。
何が悲しくて
自分がやりたくもないことをしようというのか。
動物のような本能の発揮こそ
養心の本当の力ではないか。」
 
という議論が聞こえてくる。
 
世間に多い
ニーチェ主義、ゴルキー主義、自然主義
または本能主義が説かれるのはこのためだ。
 
 また身を修めるということについても、
世間には僕と根本的に違う考えの人がいる。
(そもそも修めようとしている「身」とは何かという哲学や心理学に関する根本的な問いは、ちょっと横に置いておくとして、簡単に解釈して身とは個人のことだとしておきます。)
 
「身の修め方とは、ただ自分の快楽を求めればそれで良いことにしよう。
身を修めるとは
自分の幸福を楽しむという意味であって、
わざわざ他の人に関わるものではない。
広い世の中を見渡しても
自分という人間は一人しかいない。
この「自分」を満足させることは、
身を修めることの基本である。」
 
と、
極端な自愛説や我利我利論を主張して、
それで修身の説明をする人がいる。
ところがその人の実際の行動を見ると、
可哀そうにも、いわゆるデカダン的で、
言っちゃあ悪いが
標準の違う僕から見れば、
まるで物になっていない。
つまり、修まっていない。
一身がチラパラになり、
体が崩れて整っていない印象を受ける。
とてももったいないと思う。
 
参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)